① 非 僧 非 俗




親鸞聖人は、有名な歴史的宗教家の中ではかなりの例外で、
自分の生涯についてのことを自分ではほとんど書きのこされなかった方で、
今に伝わる伝記の多くは、後世の人々の推定によるものでしかないようです。

多くの関心を集めてさまざまな研究がなされている歴史的重要人物でありながらも、
その生涯には、現代にいたってもいまだ謎が多く、

明治時代には「 親鸞不在論 」といって、聖人は伝説上の人物であり、
実際には存在しなかったという説まであったそうです。

けれども、さすがにこれは極端に過ぎる説であって、
大正時代に西本願寺の宝物庫から、聖人の配偶者である恵信尼〔1182-1268〕公が、
末娘の覚信尼〔1224-1283〕公に宛てた書状が発見されたことによって、
親鸞聖人の歴史的実在が証明されます。

そして、覚信尼公の子であり、聖人の曾孫にあたる、
本願寺の創設者・覚如上人〔1271-1351〕によって作り上げられた伝記によれば、
聖人の出自は、藤原家に連なる下級貴族の家系であったとも、伝えられています。

通説として現代にまで伝わる伝記をもとにして、聖人のご生涯をたどりながら、
その人生に学んでいきましょう。



[ 9歳で出家得度 比叡山で修行 ]

貴族政権から武家政権へと変わっていく激動の時代に、
9歳の幼い聖人は、京都東山の青蓮院という寺院で出家得度され、
その後しばらくしてから、本格的な仏道修行のために、比叡山へとのぼられました。

当時の比叡山は、仏教はもちろん医学や天文学や薬草学までの
あらゆる最先端の知識を学べる総合大学のような最高位の学術機関でしたが、
国家権力に結びついた組織内の勢力争いが日常化し、
仏道修行よりも出世を優先するような世俗化が僧侶に蔓延し、
悟りのための出家仏教という本来の在り方からは、離れた状況にあったようです。

まさに末法の時代の様相を呈する比叡山の堕落を日常のこととして知りながらも、
聖人は常行三昧( 阿弥陀如来像のまわりを回りながら、口に念仏をとなえ、
心でひたすら仏を念じる修行 )に、日々専念されました。



[ 29歳で聖徳太子の夢告を受け 法然上人のもとへ ]

比叡山での厳しい修行に取り組む聖人でしたが、いくらそれに没頭しようとしても
煩悩に惑う自分に、煩悶せざるをえない日々を送られます。

そんな苦悩を抱えながらの修行生活にあった若き日の聖人は、
29歳の時に、聖徳太子の創建と伝わる京都・六角堂に赴き、
そこに100日間参籠したところ、95日目の明け方に、
観音菩薩の姿で現れた聖徳太子から、夢のお告げを受けます。

もし汝が 因縁によって 女性と交わりたいと思うなら
私が妻になってあげよう  そして臨終を迎えるときには 浄土へと導こう


聖人はこの夢告を受けたことによって、この末法の世においては、
人間の煩悩はいくら戒律で縛ろうとしても捨て去り切ることのできないものであり、
仏のお導きをいただくことでしか、浄土に往生することはできないと直感し、

京都東山の里を拠点としていた法然上人に「 専修念仏 」の教えを受けるために、
比叡山を下りることを決意されます。



[ 法然上人より専修念仏の教えを学ぶ ]

法然上人が説かれた専修念仏の教えは、
「 ただひたすらに南無阿弥陀仏ととなえれば、誰もが極楽浄土に往生できる。 」
という簡潔な教えであり、
それは、天皇家や公家から武士、そして一般の人々に至るまでの人気を集め、
広く世間に知れ渡っていました。

法然上人のもとに100日間通いつづけて教えを授かった聖人は、
比叡山での常行三昧修行の素養を基礎として、
その教えを深く聴き取り、法然上人の説かれる専修念仏の教えこそが、
末法の時代に誰もが救われる唯一の道であるという確信を得て、法然上人に入門されました。

法然上人の教えに絶対の信頼を寄せられた聖人は研鑽を積み、入門からわずか4年目にして
法然上人の著書『 選択本願念仏集 』の書写を許され、300人余りの同門のなかでも、
師が認める門弟の一人となられました。



[ 専修念仏の隆盛 そして法難 35歳で越後へ流罪 ]

末法思想の流行のなか、法然上人の教えは多くの人々を魅了し、
旧来の既成仏教教団から、新興である法然上人の念仏教団へと移っていく公家や武士は、
ますます増えていく一方でした。

さとりのためには難行や苦行や難しい学問が絶対的に必要であると考え、
宗教的権威として鎮護国家を祈ることこそ、国における重要な仏教の役割であるとして、

それによって権力から守られていた既成の国家仏教の立場にとっては、
だれでも念仏をとなえさえすれば極楽に行けると説く法然上人の教えは、
その正当性を到底認めることのできない、危険な思想でした。

比叡山や奈良の興福寺など既成の仏教教団の立場は次第に危ぶまれつつあり、
その危機感から法然教団へ、度重なる弾圧を強めていきます。

そして聖人入門後の7年目に、ついに既成仏教教団からの圧力によって、
朝廷より念仏禁止令が出されました。

門下の弟子4人が死刑、そして法然上人と聖人を含めた8人が流罪という厳しい勅令で、
法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後に、それぞれ流罪となり、
僧籍を剥奪されて、俗名に還ることを命じられます。

35歳にして越後に流された聖人は、
それまでにいくつかの法名( 僧侶としての名前 )を名乗ってきましたが、
これより「 愚禿 釋 親鸞(ぐとく しゃく しんらん)」の名を用いるようになり、
妻である恵信尼(えしんに)公とともに、在所で流人としての生活を送ることとなります。





[ 愚禿釋親鸞の宣言 ]

愚禿 釋 親鸞の名にある「 禿 」の一文字は、
剃髪して僧侶の姿をしていても、戒律を保ち得ないような「 破戒僧 」のことをいいます。

聖人は自らを「 愚禿 = 愚かな破戒僧 」と名乗られました。

現実として流人となっていた聖人は、朝廷より僧籍を剥奪された国家非公認の僧侶であり、
また一般の人々と同様に、妻帯もして、子供もできて、肉食もしているわけですから、
たしかに当時の社会通念にしてみれば、もはや僧侶とはいえない存在になっています。

聖人は「 愚禿 」と自らを名乗ることによって
まずは「 非僧( 僧侶ではない )」と、宣言されました。


しかしながら、その後に続く「 釋 」の一文字は、
まぎれもなく仏教の開祖である「 釋尊〔紀元前5世紀頃〕」を表すものであり、

親鸞の「 親( しん )」は、インド浄土教の開祖「 天親菩薩〔紀元3-4世紀頃〕」から、
次に続く「 鸞( らん )」は、中国浄土教の高僧「 曇鸞大師〔476-542?〕」から、

それぞれ一文字をいただいているものです。


これは、インドで釈尊によって開かれた「 仏教 」が、

龍樹菩薩 → 天菩薩 → 曇大師 → 道綽禅師 → 善導大師 → 源信和尚 → 法然上人

という七人の高僧方を介して、東アジアを横断し、日本にまで確かに伝わったことを、
高らかに世界に宣言するものであり、

自分こそが、七高僧によって顕らかにされた「 浄土教 」の正統な継承者であることを、
堂々と名乗り上げられたものです。


「 釋親鸞 」の名前が、浄土教の継承者としての宣言だということを知ることによって、
先にある「 愚禿 」の意味するところも、親鸞聖人が法然上人から学ばれた教え、

「 浄土宗の者は、愚者となりて往生す 」
( 浄土教の念仏者は、自らの愚かさに気付くことによって、成仏の道を生きる。)

を実践して体現しようとする、「 念仏者 」としての覚悟を示すものだと知らされます。

聖人は、決して世俗の価値観に生きるものではないという
「 非俗( 俗人ではない )」の宣言をされたのです。



親鸞聖人は、後に記された自書『 教行信証 』の後序に、
念仏教団に理不尽な弾圧を加え、法然上人と自分を含めたその弟子を流罪や死刑に処した
天皇や朝廷や、国家仏教の権威的僧侶たちを、厳しい言葉で批判しています。

聖人が自らの人生について自分の筆で書き残されたことは、これだけだったようです。


外見には立派そうに悟りすました僧侶の姿をしていても、
内心には地位や名誉や物欲に支配されているような「 俗物僧侶 」などでは決してなく、

仮に世間では僧侶らしからぬ、ただのなまぐさ坊主としか見られなかったとしても、
その心は真実のさとりを求める、本物の「 仏教徒 」であることの名乗りを挙げる、

親鸞聖人のラジカルなまでに実直な宗教者としての姿勢を示す、「 非僧非俗 」のお言葉です。



[ 誰もが成仏できる教え ]

約2500年前のインドで、釈尊によって開かれた「 仏教 」は、
成仏の教え、それはすなわち「 仏と成るための教え 」です。

末法の時代に煩悩を抱えながら、悩みや苦しみのなかで生活せざるをえない、
そんな私たちさえもが「 成仏 」できる教えが、釈尊によって説かれ、
インド・中国の高僧方が「 浄土教 」として、確かにそれを受け伝えられました。

そして、この極東の島国の日本で、法然上人の教えによって導かれ、
親鸞聖人の教えとなって、ついに「 浄土真宗 」として、結実したのです。


浄土真宗の教えは、社会生活のなかで、一般生活者として、
誰もがつとめることのできる「 仏と成るための教え 」です。

一般社会で世間的な仕事や生活をしている人であっても、
浄土真宗の教えを聞いて、成仏のための( 信心 )を確かに得ているのであれば、
いわゆる僧侶ではなくても、世俗の価値に迷う俗物でもないということですから、
よほど聖人の「 非僧非俗 」のお心にかなっていると思います。

親鸞聖人が( 南 無 阿 弥 陀 仏 )の教えを説かれたのは、
宗教界や仏教界などの、一部の狭い業界に対してなどではなく、
広く世界のすべての「 生活者 」である、老若男女に向けて、ひらかれたものなのです。


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