第一条】おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局をみとおしているものは少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらは道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。

 

 どんなひとも、心配なく、安心して、幸せに暮らしていける生活を求めているはずです。自分の身のまわりが平和であることを求めているのは、誰でも同じはずです。けれども、自分の正義や正論や正当性を主張して、自分の価値観にかなう平和、すなわち他者に犠牲を押し付けるような軸中心的な平和であってはいけません。そこには必ず、あってはいけない争いごとが起きてしまいます。

 

 第一条の原文にある「人皆有黨」は、人みな党あり と読み下されます。ここに見られる「党(たむら)」とは「仲間」という意味であって、「たむろ」という言葉があるように、人が群れ集まっている様子を表す言葉です。[第一条]の訳文には「党派心」と訳されているように、「」という文字に込められた意味は、ただ人が集まっている様子を表すものではなく、そこでの「心」の在り方を示しているのです。

 原文にある「黨」の字は、「尚」と「黒」の会意文字であって、それは単に「党派」をいうだけではなく、党派を形成しようと人間が思うところにある、根源的な人間の心の在り方が表されています。それは、拭いても、洗っても、磨いても、「尚(なお)・黒い」、人間の根源的な性質である「自己中心性」「自己絶対性」のことを表しているのです。

 人間が仲間を作るのは、そうすることで、自分にとっての居心地のいい場所ができるからです。人によっては、自分にとって都合のいい場所を作るために、自分にとってメリットのある者の仲間に加わることもあるでしょう。けれどもそれは必然、仲間以外の存在、すなわち「敵」を作り出すことになってしまいます。その存在が、自分にとって居心地のよくない、都合の悪い、自分たちの利益を脅かすような存在に感じられれば、自らの力を誇示してそれを排除しようとさえするのが、人間の「党派心」なのです。

 

 自分の仲間以外を「敵」と見做して対立しがちなのは、私たちの持つ根源的な性質です。ここでいう「敵」とは、自と他を隔てる境界線の、向こう側に接している存在のことです。自と他を隔てる線引きは、他でもない自己中心性のすることです。自分自身の分別意識が、彼方に「敵」をつくり出しているのです。

 隣の芝生が青く見えるのは、隣の芝生が見える距離にあるからであって、隣の隣のその向こうにある芝生は、そんなに気にならないものです。自分の意識の及ぶ範囲で、自分サイドとその他のサイドを分けて、比べて見ているだけなのです。こうした意識は、人間の根源的な性質である「煩悩」によって為されるものです。

 仏教ではこの煩悩を「無明」ともいいます。明るく無いということです。根が暗いということです。性根が黒いということです。「黨」の文字にみられるように、拭いても洗っても磨いても「尚(なお)・黒い」ということです。

 

 すべての人間が持つ「無明」そして「煩悩」という性質に気づき、自分自身を省みて、そうした在り方を乗り越えて成長しようとするのであれば、仏教の「智慧」に学ぶことが賢明です。仏教の「智慧」には、人類普遍の、万物に共通する自然の道理が、明らかに説かれているからです。

 仏教の智慧とはすなわち「理法(ダルマ)」のことをいいます。理法に気づき、それを人々に説きひろめられたのが「仏陀(ブッダ)」です。理法を根本原理とする共通認識のもとに、共に平和であろうと心掛けて、認め合い許し合う人々の集まりを「僧伽(サンガ)」と言います。

 

 聖徳太子が理想とされる共同体とは、仏法僧の「三宝」を究極の拠り所として尊重し、自然の道理が説かれる「理法」にかなうまで、世界が全体平和であるように願って、和らぎ睦まじく話し合いができる人々の集まりだったのです。

 

 

⑨ 十二階と十七条と合議制について >>>

頁. 1 2 3