第六条 】悪を懲らし善を勧めるということは、昔からのよいしきたりである。だから他人のなした善は、これをかくさないで顕し、また他人が悪をなしたのを見れば、かならずそれをやめさせて、正しくしてやれ。諂ったり詐ったりする者は、国家を覆し滅ぼす鋭利な武器であり、人民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。また、おもねり媚びる者は、上の人びとに対しては好んで目下の人びとの過失を告げ口し、また部下の人びとに出会うと上役の過失をそしるのが常である。このような人は、みな君主に対しては忠心なく、人民に対しては仁徳がない。これは世の中が大いに乱れる根本なのである。 

 

 〈義〉の章の中段にあたる[第十一条]では、功罪・賞罰について述べられていましたが、この〈信〉の章の中段[第六条]では、善悪の観念に関することとして、二つの条文を重ねるようにして述べられています。

 他者に対して褒めたり叱ったりすることは、今風にいえば「上から目線」のことと思われそうですが、実際には大変なエネルギーを使うことであって、正直なところ「面倒くさい」ことです。他人のことなど放っておければいいのですが、そうするわけにはいかない立場というものが、社会にはあります。上からの立場を振りかざして、身勝手に怒ったり可愛がったりするのは容易いことですが、相手の為に一言伝えるということは、実際にものすごく難しいことです。

 ひとに好かれたいという思いは誰にでもあります。誰も嫌われたくはないものです。けれども表面的に装って、本音を内に隠すような付き合い方をしていると、それなりの人間関係にしかなりません。本当の信頼関係というのは、やはり「まごころ」で付き合わなければ、築き上げることのできないものなのだと思います。

 心にもないお世辞や悪口・陰口・二枚舌は「偽りの心」の為すことであって、誰の為にもならないことだと、太子は告げられます。仁徳は「真心」があってこそ身に付くものであると、太子は「親心」をもって告げられているのだと思います。

 

 この条文には、諂ったり詐ったりする者は、国家を覆し滅ぼす鋭利な武器であり、人民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。という一節があります。

 「諂(へつらう)」という字も「許(あざむく)」という字も、また「誹謗(そし)る」という字も、どれも「言」を部首とする「言偏(ごんべん)」の漢字になります。二心や裏心を意味する漢字に、言葉を表す「言偏」が当てられていることは、とても意味深いことと思われます。

 話し合ってお互いに理解し合うためには、誠実な心を伝える、裏表の無い言葉を用いるようにしなければいけないということでしょう。対話を大切にしなければいけないということでしょう。

 古代中国の部首別漢字辞典である『説文解字』には、「信」の字を「人+言」に分けて解説されているそうです。信とはすなわち「誠」であり、それは、人の言葉の「まこと」を表し、言葉と言動を一致させることを示すものだということです。(出典『聖徳太子像の再構築』P122)

 信の字は「まこと」を表し、裏表なく一心の言葉ということです。

 物事の善悪を判断して、賞罰や功罪を決断するということは、とても責任の重いことです。だからこそ、誠実さを欠くようなことは戒められるべきことであって、何事にも他者への思い遣りをもって行われなければいけないと、告げられているのでしょう。

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