Ⅳ諸行無常・一切皆苦
①すべては移りゆくもの
種(A)→ 花(B)→ 実(C)
種を蒔いたから、花が咲いた。花が咲いたから、実が成った。
原因Aがあるから結果Bがあるわけで、原因Bが起きることによって、結果Cが起こるということです。
すべての事象にはそれが起こるための原因が必ずあって、それらはまた何らかの結果を生むための原因にもなる、ということです。
このような「因果律」に基づく考え方は、論理的な思考を働かせて物事を推理推察する際に基本となるものの見方であり、理に適ったものであることとして同意し得るものでしょう。
ではここで、この「因果律」という考え方を、更に突き詰めて考えてみたいと思います。
因果律とは「原因」と「結果」という二つの関係性であり、原因と結果は必ず二つが対になってあるものです。
ここでの関係性を「スタート」と「ゴール」に置き換えてみると、
スタートしたからゴールする。
とも言えますし、
スタートした限りはゴールが必ずある。
とも言えるでしょう。
どこかを目指して出発した限り、必ずどこかには到着するはずです。
けれども、その地点がゴールだからといってずっと止まっていられるかというとそうはいかず、その地点からスタートして次の目的地への移動が始まります。
例えば1日が終わって家に帰るとき、電車に乗るとしましょう。
目的の駅まで電車に乗ってその駅に着いたら、今度はそこから真っ直ぐ家に帰るか、夕飯を買いにスーパーへ寄ったり、または外食しに行ったり、どこかへ向かって歩き始めるでしょう。
やがて家に帰ってきたとしても、今度はそこからお風呂場に行ったり、トイレに向かったりするでしょう。
夜になったら布団に入るでしょうが、目覚めればまたどこかを目指して、家を出て歩き始めます。
始まりがあれば、必ず終わりがあり、そしてその終わりが始まりとなって、また次の終わりへと向かっていくわけです。
更に考えを突き詰めてみましょう。
私たちは生きている限り、呼吸をします。
呼吸しているということが、そのまま生きているということです。
一度息を吸った限りは、必ずその息を吐かなければいけません。
そして息を吐ききったなら、また次の息を吸わざるを得ません。
私たちは息を吸って吐いてを繰り返しながら、生きています。
この世に生命を宿した瞬間に、私の心臓は最初の鼓動を打ちました。
その鼓動が次の鼓動につながり、今の鼓動につながっています。
けれど思えば、私が生まれるそれ以前にも、
誰かの心臓の鼓動が打ち続けていなければ、私の鼓動はなかったでしょう。
誰かの命を受け継ぐようにして生まれて来たのが、自分の命なのですから。
過去があるから現在があって、現在は未来に繋がっていきます。
いま打つ私の心臓の鼓動が、どこかの何かに影響を及ぼすこともあるでしょう。
ともすれば、世界全体が連動して、鼓動を打ち続けているようにも感じられます。
仏教ではこのようにして、ある事象(形成されたもの)と、その事象を形成するはたらき(形成力)の両方を、二つ併せて「行(サンスカーラ)」と言います。
数ある仏教用語の中でも「諸行無常」は耳なじみのある言葉だと思います。「諸行無常の響きあり」なんてフレーズを思い出す人もいるかもしれません。
この仏教用語は、一般には「無常感」といった心情として受け取られることが多く、物事は移ろいやすく儚いものであるというものの見方で、虚無感と同義に受け取られることが多いようです。
しかしながら本来の意味でいうところの「諸行」、すなわち諸々の行(サンスカーラ)とは、さまざまな要因によって形成される現象のすべてを指すものです。
そして、すべての物事は一時として止まらず、一連の流れのなかで常に変化し続けているというのが「無常」の意味なのです。
「諸行無常」は、私たちの生きる現象世界の「ありのまま」を言い表している言葉であると言えるでしょう。
川の流れは一時として止まることなく、変化し続け、動き続けています。
海は、海流によってゆったりと移動し続け、時として激しく、時として穏やかに、いつも波打っています。
いつも変わらずそこにあるかのような山も、時とともに移ろう日光の具合によって、一瞬として同じ姿を見せることはありません。
四季の移ろいによって、その景色を変えていきます。
巨大な岩であっても長年の風雪にさらされれば、少しずつその形を変えていくでしょう。
そして、元の形に戻ることは二度とありません。
天に仰がれる星々も、刻一刻と、少しずつその配置を変えていきます。
1年前の私と今の私は違いますし、1日前の私とも、1分前の私とも違っていて、私が自分を認識する「今」の瞬間には、その私は既に過ぎ去り、今の私に変化しています。
原因は必ず結果を生み、その結果が原因となって、また次の結果を生み出します。
時間の流れが止まることもなければ、逆戻りすることもありません。
高低差のある崖を物凄い勢いで流れ落ちる水が「滝」であって、
それは決して固定的なものではありません。
それは、ダイナミックに変化する、
ありのままのエネルギーそのものであって、
そうした運動性が眼に見える形であらわれた「現象」なのです。
これこそが、「行(サンスカーラ)」のはたらきです。
私たちが認識する現象世界に見られるすべての物事は、ダイナミックに変化し続ける、ありのままのエネルギーそのものであり、その現れとしてあるものなのです。
photograph: Kenji Ishiguro