(3)自己の執着を捨て去るための、施しの修行。


ここでもう一度『 盂蘭盆経 』を読み返してみると、
ある二つの疑問点が浮かび上がってきます。

ひとつには、
なぜお釈迦さまは、目連に亡くなったお母さんの供養しなさいとは言わないで、
仲間の修行者たちに施すことを勧められたのかということ。

そしてもうひとつには、
なぜ目連は出家の身でありながら、
施しができるだけの「 蓄え・所有 」をもっていたのかということ。


言い伝えによると目連の出自は、インドの階級身分制度である「 カースト 」のなかでは
最高位に位置する「 バラモン 」の生まれのようであり、その母も当然「 バラモン 」です。

カースト制度は、武士階級である「 クシャトリア 」や
市民階級である「 ヴァイシャ 」奴隷階級である「 スードラ 」、そしてさらには、
どのカーストにも属さない多くの虐げられた人々によって構成されるもので、
その比率は上位になるほど、それに属する人口が少なくなっていくピラミッド型です。

ピラミッドの頂点にあるバラモンは、六道輪廻の世界でいうならば「天上界」の人々です。

生まれ育ちが良いうえに、「 超能力 」という才能まで持っていた目連は、
相当に恵まれた境遇にあったといえるでしょう。

そんな目連を産み育てた母も、我が子こそが可愛く、
自分の世界にしか関心が無いような「 セレブ界 」に閉じこもる生活だったのかもしれません。

天上界にあっても、セレブの中での見栄の張り合いに、
いつも目をつり上げていたのかもしれません。

人間は、基本的にみな、自己中心の「 我の鬼 」なのです。



目連は、お釈迦さまのアドバイスを受けて仲間の修行者たちに施しをするわけですが、
それは逆の見方をするならば、

出家者としての悟りを求めて、俗世のことを捨て去ろうとしていたはずの目連なのに、
他者に施せるだけの所有を、まだ持っていたということです。

人の心を読むことだって得意なはずの目連の心も、
お釈迦さまにはすべてお見通しだったのかもしれません。

お釈迦さまのもとで修行するお弟子たちは、その教えのもとにみな平等だったはずですが、
それぞれにその出自は異っていて、そこでの才能や境遇は、
人それぞれに一人ひとり異なっているものでしょう。

恵まれた才能や生まれ育ちを持ち合わせていることが当然な人にとっては、
他者の能力や境遇にまでは、考えが及ばないのかもしれません。

それは、恵まれない状況にある人にとって、恵まれた状況にある人のことが、
まったくといっていいほど分らない、理解できないのと同じでもあります。

恵まれていてもいなくても、自分が一番大事だということは同じで、
人間は基本的にみな、自己中心の「 餓鬼 」なのでしょう。




では、そんな目連の先生であるお釈迦さまは、どのようにアドバイスされたのかというと、

すべての僧侶たちに食べ物を施せば、亡くなった母の口にもその施しの一端が入ることだろう

と言われたわけです。


つまりは、安居の修行を終えた「 あなたの仲間たち 」に、施しをしなさいといわれたのです。


目連へのお言葉に込められた、お釈迦さまの真意を、読み解いてみましょう。








安居の修行期間中はみんな一緒に屋内の僧院で日々を過ごすわけで、
その間のサンガ( 教団 )のなかでの食料や居場所は、みんなに等しく保証されています。

修行のための決まりごとは当然あるにしても、サンガのなかではみんなが平等です。

けれども、これから安居が終わって再び外の世界に出て、
みんながそれぞれに修行の旅に出かけていった後は、どうでしょう。

ひとそれぞれの能力も違えば、性格も違うし、これまでの生まれ育ちだって違います。
器用に世間を渡っていける人もいるでしょうが、
他者からいただく施しだけで生きていかなければいけないわけですから、
食べ物や飲み物を得ることが難しかったり、寝場所にも困るという人だっているでしょう。

人の世( 娑婆 )に生きるということは、とても厳しいことです。

これからそれぞれの修行に旅立つ前に、
みんな平等に滋養をつけて、活力を得ることができるように、

自分のために蓄えた財産があるなら、それを他者のために施すことを、
お釈迦さまは勧められました。


自分の中に溜め込んだ自己中心の毒を吐き出すことで、
自分も楽になるだろうし、仲間たちも、楽になる。

財産を施すことを「 財施( ざいせ )」といいますが、
仏教の教えをみんなに説き広めることは「 法施( ほうせ )」といわれて、
どちらも尊い「 布施 」の修行です。

自分にできる布施の修行を、それぞれが精一杯に成し遂げて、
それが世界の隅々にまで広がっていくことをイメージするなら、

まず目連のできることは、
日々の生活を共にしてきた仲間たちに、
自分の所有を分け与えることだったのです。

その施しは廻り廻って、自分の為にもなるだろうし、

今はすでに亡くなられた目連のお母さんも、かならず成仏されることでしょう。







人間として生きている限り、自分の所有をすべて捨て去って、
他者のために生きるということは、本当に難しいことだと思います。

人の親が自分の子供のことを大切に想い、
自分のことを犠牲にしてでも、守り育てようとすることはあっても、
それと同じことを、他人にも出来るかといえば、なかなかできないものだと思います。

私たち人間は「 自分の子供 」のためになら、
餓鬼道に堕ちるようなことをしてでも、子供のことを守ろうとするでしょう。

そうして育てられてきたのが、私たち一人ひとりなのです。








浄土真宗の教えに照らしてお盆の意味を捉え直すならば、

自分を育ててくれた人たち、支えてくれた人たち、
いまある出会いにつながる、すべてのご縁の人たちに、

いまを生きる自分は、多くの施しを受けて、
生かされて生きているのだということを、
深く感謝し、
手を合わさせていただく機会とするべきでしょう。


そしてまた、すぐそばにいる人との一期一会の出会いを慶び、
できる限りのことを、ひとのために施すよう、努めていくべきなのでしょう。







めったにないまとめてとれる休日なのだから、

自分の好きなように過ごすのもよいかもしれませんが、

自分のスケジュールをちょっとだけ調整するようにして、

一番身近なご縁である「 家族 」と一緒に「 ご先祖さま 」のお墓参りをするというのも、

廻り廻って自分のためになるかもしれません。


これからの人生を生きていくための、大切な何かを、感じることができるかもしれません。

お盆とは、今はもう亡くなられた方々から施された、大切な「 仏縁 」なのですから。







合掌

南 無 阿 弥 陀 仏



>>> 21世紀の仏事とご縁の目次へ