③仏の教えが今ここの私にいたるまで

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慶集寺は「浄土真宗本願寺派」の寺院です。そして浄土真宗の宗祖は「親鸞聖人」です。

お西(本願寺派)やお東(真宗大谷派)などといって、浄土真宗にもいくつかの宗派がありますが、浄土真宗は親鸞聖人の説かれた教えであって、聖人のつくられた正信偈を、どの宗派でも日常的なお勤めとして読むこととなっています。

かつての富山県では家の慣習として浄土真宗の信仰が根付いていたので、家の中には仏間があって、そこには阿弥陀さまの安置されている仏壇があるというのが当たり前でした。

けれども最近では住宅事情も様変わりして、三世代で同居している家というのも稀ですし、若い方々のお住まいは高気密・高断熱の窓の小さな家屋が主流になっています。そうした住空間では、畳の部屋がないこともめずらしくありません。代々に渡って受け継がれてきた家のお仏壇であっても、その継承が難しくなってきているのは、こうした事情からも察せられるところです。

 

富山、石川、福井の北陸3県は、古くから浄土真宗の門徒さんがとても多い地域で、かつては多くの家の仏間で、家族みんなで「きーみょうむーりょうじゅーにょらーい」と読経する、正信偈の声が聞かれたといわれます。

いまでこそインターネットで検索すれば、正信偈の読経もユーチューブなどを通じて、いつでもどこでも、聴こうと思えば、好きな時に好きな場所で聴くことができるでしょう。

けれども、カセットテープやCDなどの録音メディアが普及する前の時代を想像するなら、まずは家族揃って仏壇の仏さまに向き合い、親から子へ、子から孫へ、人から人へと口伝えにして、それを耳で聞き継がれることによって、正信偈の声は自然に受け継がれてきたのだと思います。

そうした信仰の伝承が、かつての北陸地方には、普通にあったのです。

 

◉蓮如上人にはじまる北陸の伝道

北陸3県に浄土真宗の信仰がさかんであった理由を知るには、いまから約500数十年前の、本願寺8代宗主・蓮如上人(1415-1499年)の時代にまで遡ることとなります。蓮如上人は室町時代に活躍された方で、その当時は衰退の極みにあった本願寺を再興したことから「本願寺中興の祖」とも呼ばれている方です。

いまでこそ日本最大の教団になっている本願寺ですが、蓮如上人の生まれた頃は天台宗寺院の末寺に過ぎず、勢力としては小さなものだったといわれます。42才で本願寺の宗主を継承されて、56才で越前の吉崎に下向された上人は、北陸地方への布教伝道を精力的に展開されました。

吉崎御坊での滞在は4年数ヶ月間でしかなかったようですが、時代の大きなうねりがあったのでしょう。北陸全体に「蓮如ブーム」を巻き起こすような勢いで門徒の数が増えていって、教団の勢力はどんどん大きくなっていったそうです。

妻の死別を4回に渡り経験して生涯に5度の婚姻を結ばれ、子供は男子13人、女子14人の計27人(!)。常人離れしたバイタリティーで、85年間の激動の人生を生き抜かれた方です。

蓮如上人は、お坊さんだけでなく在家生活を営むご門徒方にも、日常的にお勤めすることを勧められました。多くの人にとって読みやすい形に編集して、正信偈を木版で製本して、これを一般にも広く推奨して頒布されました。

かつての北陸地方に見られた、家族みんながお仏壇に向かって正信偈をお勤めするという習慣は、蓮如上人の発案が、その始まりだったのです。

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