①いまなにをどう信じるか・因果と縁起

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◉自然の道理にかなう仏教

仏教用語としての「因果」や「縁起」を正しく理解するなら、「縁起が悪い」とか「ご縁が無かった」とか「因縁をつける」といったような慣用句は、安易に使ってはいけないもののように思われます。

黒猫が横切ると悪いことが起きる。とか、霊柩車を見たときに親指を隠す。とかいうように、世間にはいろんなジンクスがあります。けれどもそのような「縁起が悪い」と言われるようなことにこそ、そこにある事象の原因と結果の間に、普遍的で必然的な関係性があるかどうかを、主体的な姿勢で検証してみるべきなのです。

科学的に見て、そこに原因と結果の関係性が立証されないようなものであるなら、もちろん仏教的にも、縁起の道理に適っているものとは見做されません。仏教は科学に反するものではなく、科学的な論理性を踏まえているものです。そしてそのうえで、客観的な論理性を越えたところにある「真理」へと、主体的に向き合おうとするものなのです。

 

「縁起が悪い」と簡単にいうことがありますが、人と人とのご縁というものは、善いも悪いも縁は縁であって、それを善いとするか悪いとするかは、自分が決めることです。ご縁が有るとか無いとかは、他人の考えで決められるようなものではありません。

「今回のことはご縁が無かったということで」なんていうような言葉の使い方は、人間の理解の範疇を超える「縁起」の不思議なつながりを、体裁を取りつくろうために都合よく使った言い方に過ぎません。表立って現れることがなくても、さまざまなご縁が陰となってはたらいているからこそ、結果としてのいまがあるのです。良いも悪いも縁は縁であって、出会いも別れも、ご縁のはたらきがあってこそ起きることです。

時間的にも空間的にも様々な要因が関わり合って、まさに現象化して存在する「いまここ」なのです。いまここの出会いなのです。

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