① 仏教の前提として-因果と縁起-

誰もが新型コロナウイルスの影響下にあることを自覚せざるを得ない昨今の状況にあって、先行きの見えない混迷の時代の真っ只中に、いま私たちは置かれています。歴史年表に刻まれるような、世界的な大変動が起きている時代なのだと思います。

様々な分野において、これまでの当然や通念や定説を見直して「何をどう信じることが正しいことなのか?」と、改めて問い直さなければいけない時が来ているような気がします。

物事の筋道が通っていなければ、多くの人に肯きをもって受け入れられるような「正しさ」があるとは言えません。道理に適ったことでなければ「正しく信じる」ことはできないように思います。

仏教には一貫してみられる論理性があります。それが、仏教の中心思想である「因果と縁起」の道理です。まずはその基本的な考え方を見直すことから「正しく信じる」ということに取り組んでみたいと思います。

 

 

仏教では、あらゆる事象について「因果」と「縁起」に基づいて考えます。

種を蒔いて、花が咲く。花が咲いて、実が成る。というのは、原因と結果の関係性を言っているのであって、こうした見方を「因果の道理」といいます。

種(A)→ 花(B)→ 実(C)

Aがあるから、Bがある。Bがあるから、Cがある。といって、ある事象Cが引き起こされるための原因Bをたどって、さらに事象Bが引き起こされるための原因Aを探っていくという考え方です。

原因Aがあるから結果Bがあるわけで、原因Bが起きることによって、結果Cが起こります。けれどもまたそれは、原因Aが無くなれば結果Bは無くなるということでもあります。Aが無いならBを原因として起きる結果Cも起きないということです。

原因Aが無いなら、結果Bも無いし、結果Cもありません。これが「因果の道理」に基づく仏教の基本的な考え方になります。

 

 

実を結ばせるためには、花を咲かせる必要があるし、それにはまず、種を蒔くことが必要だということです。

しかしながら、原因があるから結果があるということは確かであっても、種を蒔けば必ず花が咲くというわけではありません。そしてまた。花が咲けば必ず実が成るわけでもありません。

種を育てるには、それを蒔くための土壌が必要だし、そこに水を撒いたり世話をしたりする人がいなければいけません。太陽の光や、種が育つために適した温度や湿度など、さまざまな環境も整っている必要があります。さまざまな条件が揃ってはじめて、花が咲き、実が成るのです。

 

 

因果の「因」を直接的な要因とするなら、他にある間接的な要因を「縁」といいます。

種を蒔くことは直接的な要因として不可欠ですが、土や水や光や人など、様々な要因が揃ってようやく、花が咲き、そして実も成るということです。

ものごとの結果を起こすための要因は、一つに限ってあるわけではありません。様々な要因の関係性のなかに「縁りて起こる」ものなのです。あるひとつの「因」とさまざまな「縁」が相互に関係し合うことによって、はじめて「結果」としての事象が成り立ちます。

あらゆる物事は、時間的にも空間的にもさまざまな要因が「縁りて起こる」現象です。

これを「縁起」といいます。

 

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