2020年5月25日、アメリカのミネソタ州ミネアポリスで白人警察官が、偽ドル札の使用容疑によって手錠をかけられた黒人男性の頸部を、8分46秒ものあいだ膝で強く押さえつけ、「呼吸ができない」「助けてくれ」と懇願されていたにも関わらず、死亡させるという事件が起きました。

その現場にいた一般人が事件の一部始終をスマートフォンで撮影した動画がSNSを介して爆発的に広まったことが発端となって、コロナショックが世界に波及している最中に、人々の鬱屈が爆発したかのように広がった抗議デモ。

「Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)」の運動は、アメリカ国内では一時は暴動が起きるまでに激化して、その影響は全米にとどまることなく、世界各地に広まっているようです。

 

同時代を生きている。

私たちはみな、同時代を今、生きている。

この世界に、生きている。

 

「人間の尊厳」って何なんだろう?

 

8分46秒の映像を介して、自分も息ができなくなってしまうような感覚を共有してしまった多くの人々が、同時多発的にこの問いについて、改めて思うことになったのではないでしょうか。

「人間の尊厳」なんて言葉は、学生の頃に社会の教科書にあったのをなんとなく覚えているぐらいで、普段から使うような言葉ではありません。

私たちがいつも「人間の尊厳」について意識しながら生活しているかというと、そんなことはないと思います。

けれどもいま、そのあまりにも大きな「?」に向き合い、「そもそも」に立ち戻って、私なりに考えてみようと思います。

 

 

 

まずは、仏教学者・中村元博士の『仏教語大辞典』サ行の頁を開いてみましたが、「尊厳(そんげん)」の項目は見当たりませんでした。仏教用語としての「尊厳」という言葉は、無いようです。

そこで、インターネットの辞書のページで「尊厳」の語を調べてみると、

「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。」

とありました。

なんとなるわかるような、わからないような。。。

 

私たちがそれぞれに持っている「プライド」のようなものなのでしょうか?けれども「pride」という単語は「自尊心」と訳されるものであって、「尊厳」は英語で「dignity」です。

私たちの「自尊心」というものは、萎縮してみたり、肥大してしまったり、そんなことがよくあります。それに対して「尊厳」は、時によって大きくなったり小さくなったりするようなものではなく、「すべてのものに等しく厳然としてある」ように思われます。

自己努力によって身につけたり、個人によって所有されるようなものではなく、「尊厳」とは、誰にも先天的に「備わっている」はずのものなのではないでしょうか。

 

 

公民の教科書には「個人の尊厳」という言い方もあったような気がするので調べてみると、

「すべての個人が互いを人間として尊重する法原理」

と書いてありました。日本の法体系では最高の価値基準としてある、いわゆる「基本的人権」の根拠となる考え方なのだそうです。

 

ほんとは したかったこと 

ほんとは したくなかったこと 

ほんとは してほしくなかったこと

ほんとは してほしかったこと

 

生きづらさを感じながら、切ない現実を受け止めながら、苦々しい思いをしながら、泣きたくなるようなことに耐えながら、誰もがそれぞれに、生きていかなければいけないのでしょう。

だからこそ、自分が「嫌だ」と思うことを、他人にしてはいけないのだと思います。

 

ほんとに大切に思っていることが、一番大事にしていることが、ひとそれぞれにあるはずです。

自分の立場で、自己中心にしか考えず 相手の気持ちや人間性を無視してしまうようなことがあれば、やられたらやりかえせが、繰り返されてしまいます。

 

仏教では「因果応報」の原理をいいます。自分のやった行いが原因となって、良いことも悪いことも結果として、自分に報いをもたらします。

お互いに不幸は遠ざけていたいものだから、お互いに幸せでいたいものだから、

お互いにそこだけはわきまえて付き合おう。尊重しあおう。気をつけあおう。

そういうことなのかもしれません。

 

 

 

尊厳を用いた用語として、「生命の尊厳」という言葉もあります。

インターネットで調べてみると、「感覚を持つ生物の多くの面を、暗黙のうちに保護するべきだという原則」とあります。そうした面は「畏敬するべき、尊く神聖なものであり、侵害されてはいけない価値を持つ」とも書いてあります。

ここでいわれる「生命の尊厳」とは、人間に限定されることではなく、動物にも植物にも、生きとし生けるすべてのものに適用されることとして、考えなければいけないことのようです。

 

自分のいのちを一番大切に感じているのは、どんな生き物であっても、みんな同じはずです。自己保存の本能は、個体として認識される生命体には、必ずあるものなのだと思います。

けれども、自分本位な立場で生きることしかできない私たち人間は、自分たちが生きていくための手段のようにして、他のいのちを扱うことに憚ることがありません。

あらゆる生命のなかでも人間の生命だけが特別なものであって、人間だけが我が物顔で生存していられるということは、あり得ないと思います。

自然災害が多発したり、疫病が蔓延したりするような現代の状況を思うと、やはり「因果応報」を感じずにはいられません。

生命には、人間が触れてはいけないような「タブー(禁忌)」があるように思えてなりません。

 

生命は尊く神聖なものだと思えば思うほど、僧侶としての立場に踏ん反りかえって、いわゆる宗教者然とした態度で、分かったような、悟りすましたようなことは言えなくなってしまいます。

脳死や人工中絶、尊厳死、遺伝子操作といった生命倫理の問題も、私たちが生きる人間の世界には現実のこととしてあって、考えれば考えるほど、安易なことは言えなくなってしまいます。

人間にとって、畏敬の念をもって崇め奉るしかないような、「生命の不思議」の領域があるのだと思います。慎みをもってそれに向き合い、それとの関わりを保とうとするのが、「宗教」の役割なのだと思います。

 

 

 

 

改めて最初のテーマに戻って「人間の尊厳」について考えてみると、まずは生きとし生きるすべてのいのちの中から、人間とその他の生命体とを、分けて考える必要があるように思われます。

人間だからこそ有する、人間にのみある「尊厳」とは、一体何なのでしょうか?

 

旧約聖書の創世記第一章には、

神はいわれた、『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

と記されています。

これは何も、神さまは人間みたいな姿かたちをしているのだというわけではなく、人間には他の生命体にはみられない、知性や理性や悟性、豊かな感性や強い意志があるということを言っていると、神学では考えるようです。人間としてその能力のあることに、感謝しなさいということのようです。

確かに他の動物にはないような精神性が、人間にはあります。けれども果たして、人間がそんなに立派なものなのか、どうか。

自然災害に怯え、疫病の流行に慌てふためく人間の有り様をみていると、とてもすべてを支配できるほどの能力者であるとは、思えません。

 

 

むしろ、滑稽で、ズルくて、頑固で、いい格好しいで、いい加減で、悲しくて、ふざけていて、それでいて面白く、優しく、愛おしいのが「人間」であるように、私には感じられます。

だからこそ、そんな人間にこそ、「かけがえのないいのち」を感じます。

 

人を人とも思わないような態度を取られたり、

人として扱われていないと感じたり、

人間として蔑(ないがし)ろにされたり、

虐(しいたげ)げられたりすることがあれば、

どんなひとでも怒るのが当然だと思います。

 

現代においては犬や猫のような愛玩動物の方が、よほど家庭内での順列が高く、尊重されているという面もありますが、それでもやはり、他人が自分を犬や猫のように扱うようなことがあれば、憤りを感じて抗議するのが、人間としては普通であると思います。

首にリールをつけられて生活するのでも平気だという人は、そんなに多くないと思いたいです。

 

 

私だって 人間だ

私にも 自由がある

私は ここに生きている

私は私で いいじゃないか

 

そう声に出さずにはいられないようなことが、人間だったらあると思います。

それだからこそ、人間なのだと思います。

 

 

 

 

人間以外の動植物にも、本能的な生存欲求はあるはずです。自然な生理的「欲求」に従って、その生態があるのだと思います。では「欲望」はというと、どうでしょうか。

ヒトの場合には、隠そうとしても隠しきれない「欲望」が有ります。自分のことを顧みれば、疑いようもなく、有ることが分かります。

自然な「欲求」という範囲では収まりきらないような、澱み渦巻くような「欲望」を抱え込んでいるのが、人間であるといえるでしょう。

 

また同時に人間は「願望」も有しています。人間は何かを「願い・望む」ものなのだと思います。

何かを「願い・望む」ということが、自然界の他の動植物にもあるのかどうかは分かりませんが、確かに人間は、何かを願い、望みます。

人間はひとそれぞれに、「願い」「望み」を持って、生きているのだと思います。

 

まずは自分のことで何かを願い、

そしてまた、

愛する人のことを願い、家族のことを願い、子供のことを願い、

隣人のことを願い、友のことを願う。

 

社会の安全や安心を願う。人々の幸せを願う。世界の平和を願う。

 

そういう気持ちや感性が「人間」にはあるのだと思います。

ひとそれぞれに、いろいろな願いをもって、さまざまに生きているのだと思います。

人生の最期のその時にまで、ひとは何かを願うのだと思います。

 

 

ミネアポリスの路上に息絶えた黒人男性、ジョージ・フロイド氏の最後の言葉は、

 

「息ができない。お願いだ、助けてくれ」

 

だったといいます。

 

あまりにも重い、最期の願いの言葉です。

 

 

 

人間は死んでしまって、動かなくなってしまっても、ただの「物質」になるわけではありません。遺された者たちにとっては、その人が動かなくなったからといって、「モノ」のように扱ってもいいと、思えるはずがありません。

ご遺体を火葬しなければいけないそのときに、感情が昂らない人はいません。火葬された後に拾うご遺骨を、ただのカルシウムの固まりだと思える人はいません。

人間の尊厳とは、心臓が動いている間のことだけではないはずです。

時間をかけて、さまざまなプロセスを経ながら、亡くなられた方の尊厳を敬うことが、いまを生きる私たち自身の、尊厳を保つことにもなるのだと思います。

 

 

人の死に際して執り行われる「葬儀式の意義」とは、

 

かけがえない個人の尊厳をまつること

 

すべての生命尊厳をまつること

 

人間としてある自分の尊厳をまつること

 

なのだと、私なりに、思い至りました。

 

 

亡き方はその人生に、何を願われたのか。今もなお私たちに、何を願われているのか。

遺された人々はそれを、憶念するべきではないでしょうか。

 

亡き人を、偲び、悼み、祈り、願い、集うなかで、

人間であってよかったなあと、

心からおもえるようなご葬儀でありますようにと、

心から願っています。

 

 

[ つづく ]

 

 

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