最近では、普通に誰でも知っている「終活(しゅうかつ)」という言葉。

自らの死を意識して、人生の最期に向けた様々な準備や総括をしておくことを意味する「人生の終わりのための活動」を略した言葉です。

いまから約10年ほど前に週刊誌『週刊朝日』の記事上で用いられた造語がそもそもの起源だったようで、2010年の新語・流行語大賞のベストテンにも入っています。

もともとは就職活動の略語である「就活(しゅうかつ)」にかけた洒落っ気のある造語だったのでしょうが、いまでは本家本元にもまして、世間の関心を集める実用語にもなっています。


この言葉の生みの親とされる『週刊朝日』の元副編集長は、私とほぼ同年代の人のようで、この言葉が創り出された2010年の頃には、お互いに30歳前後だったようです。

終活という言葉をつくったのが、その活動の当事者である高齢層によるものであったわけではなく、その子供に当たる世代によるものであったということは、私にとっては妙に納得するところ。

5年前に自分の父親を亡くし、その喪主としてご葬儀を出した経験からも、寺の住職として、ご門徒方に関わらせていただいている経験からも、現代の日本でこの言葉が関心を集める理由が、なんとなくわかるような気がするのです。

 

 

現在の80代以上の年代層には「老後のことや死んだ後のことは若い人たちに任せておけばいい」と考えられる方も、まだまだ多くいらっしゃいます。

けれども老後や亡後のこと、お葬式やお墓、遺品の整理などのことを、ご遺族となる人たちに任せるというのは、普段から生活をともにして、身辺のことを分かってもらっていてこそ可能なこと。

三世代が同居して生活を共にしているような家庭は、地方であってもすでに少なくなっています。

超少子高齢社会となった現代では、若年人口の数は減少する一方でありながら、世帯数の方は年々増加しているといいます。

昔であれば、年老いた親は子供が扶養するのが当たり前だったのかもしれませんが、現代では高齢者の一人暮らしや、老後を施設で暮らされる方は、けして少なくありません。

 

終活という言葉を創り出したのが、その当事者となる高齢者世代による、自発的なものであったわけではなく、その子供世代から発せられたものであったということは、

「亡くなった後のことをわたしたちに任せられても困りますよ」

「自分がどうしたいのかどうしてほしいのかは自分でちゃんとしておいてくださいね」

「わたしたちでもどうにかできるように整理しておいてくださいね」

という子供の立場からはなかなか言いにくい心中を、

「終活しといてね」

というソフトかつダイレクトな言い回しで伝えてしまおうという、子供の側の術(すべ)であるように、私には思われるのです。

 

 

現在の70歳から72歳になる年代層は「団塊(だんかい=かたまり)」といわれるほどに人口が多い世代で、2025年にはこの年代のすべてが、いわゆる「後期高齢者(75歳以上)」になるそうです。

戦後の社会に生まれ育った団塊の世代は、それ以前とは異なる価値観や考え方を積極的に社会に示して、日本に新しいライフスタイルを築いてきたといわれています。

終活についてのアンケート調査のいくつかを見てみると、この世代のおおよそ半分ほどが「終活肯定派」のようです。

そして、「自分の老後や亡後のことで家族に迷惑をかけたくない」「他人の手を煩わせたくない」という考えが、終活をするおもな理由にもなっているようです。


自分の老後や亡後のことは自分で考えていても仕方がない、後の人に任せておくしかないという「終活不必要派」の割合は、世代が進むにつれて少なくなっていく傾向にあります。

自分のことは自分で整理しておかないと、任せられた方がお手上げになってしまうような状況は、現実のこととして既にあります。

親の世代に向けて「終活」という言葉を投げかけた私たちの世代も、もうすぐ50代。

自分自身の老後や亡後についても、他人事ではいられません。

 

 

まだまだ働き盛りの50代。やらなければいけないことはたくさんあるし、自分が老いることや死んでしまうことのイメージなんてしたくもないし、縁起でもない。

そんな気持ちはよくわかります。

アンケート結果をみても、50代から終活への関心は次第に高まっていくようですが、実際にそれをはじめるのは60代70代の年代層からが多いようです。

80代90代の方であったとしても、自分の老いや死は、なるべく遠ざけておきたいものでしょう。明日はあると思って、人は生きていくものなのだと思います。

高齢者施設で「100歳になるまでがんばってね!」と声をかけたら、「私もう99歳なんだけど…」とさみしげに言われてしまったなんて話も、あるそうです。

 

 

けれども、僧侶として「生 老 病 死(人間はみな生まれ、老い、病み、死ぬということ)」の教えを聞いて、寺の住職としてご門徒方のご葬儀を任されている限りは、自分自身の老いや死ということに、目を背けてはいけないと思っています。

昨年、同い年の友人を、突然亡くしてしまったことも、大きかった。

新しい家をようやく建てられて、明日から家族みんなで住むために家財道具を運び終えて、最初に眠りについたその夜のベッドのなかで、翌朝には息をされていなかった。そんな辛い現実を受け止めなければいけないということが、私たちの生きる世界にはあるのです。


人生90年時代、100年時代とかいわれているけれど、明日もいつものように目覚めて、いつものような1日を過ごせるかどうかなんて、何の保証も、確証も無いことです。


「老 少 不 定(人の寿命に年齢の定めはないということ)」
の現実を、他人事のようにしてはいけません。
まずは自分から「終活」に取り組んでみないと、それが良いことなのか悪いことのか、した方がいいのか、しなくていいのか、ひとにどうこう言うことは、出来ないと思うのです。

 

 

ということで、

もうすぐ50代になるちょっと手前の49歳にして、自らの「終活」を思い立った私。

住職として、僧侶として、人間として、誠実でありたいと思うがゆえの思いつきでありながら、

まずは何からどうしていいものなのか。

とりあえず、アマゾンで「エンディングノート」買ってみました。

 

 

 

 

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